「抽象度と自利と利他」

今日は「抽象度と自利と利他」について
お話し致します。

今回はかなり抽象度高めの話になります
なんとなく浮かんだフレーズを羅列します
Twitterに投稿するには分量が多い為
ブログで投稿しました

なお、理解しやすい様に
仏説など採用してますが、
宗教の話ではありません。

コーチングで
抽象度や利他を語る時があります

抽象度高く生きるとは?
悟るとは何か?
利他とは何か?
煩悩の正否
本当に目指すあり方とは?

なんて様々な視点から
何か気付きを拾って頂けたら幸いです

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アセンションプリーズ♪
目覚めよ!悟ろう!覚醒しよう

高次元に生きる
物理抽象度ではなく情報空間で観る
抽象的な高次元に生きる
 
3次元や4次元に生きるのではなく
その更に上の視点で生きる
 
要は「識」を広げていく
これが抽象度高く生きる
という視点です

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そして
その次元や抽象度とは
高く上がるとかの
物理視点の事では無く
 
「今ここ」に
全ての次元がある事に気が付く
 
全てが包括されている
と観ることが本質です
 
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そこに気が付いたとき
実は「点」に全てが
包括されていた事に気が付きます
 
そうなると「次元数字」が低いほど
実は「抽象度が高い」と観ることも出来ます
 
「点」を物理空間で観ず
「点」を情報空間で観る
 
「点」より先の次元を
認知しようと突き詰め
「識」を広げ続ける事で抽象度を上げ続けると

遂には「点」の内に
全てが包括されている事に
気が付いて行く

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関係性から存在する「点」

「点」の繋がり広がりが宇宙と知る
「点」を知れば宇宙を知れる
 
そして遂には
広がりが実は内にある

「点」に内包された「宇宙を知る」
 
一次元の「点」に回帰し
それさえ有って無い「零次元」
そっち側が「悟の世界」だと気付けます
 
そして「零」さえない事を知る
でも、有りもする。そして、沢山ある。

抽象度を高めようと「識」を高め続けると、結果「点」に全てが包括されている。それを「束」と呼ぶことも出来ますが、始まりの「点」の内にさえ包括された「宇宙」がある。

足すも引くも同じ事、同じ処へ還ってくる

敢えて答えを創り出すなら
「どっちでも良い」が答えです

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但し、認知を欲しがる我々は
悟る為に知ろうとする「煩悩」があります

これは「禁断の果実」を
口にしたからかもしれませんね

常に、秘密の技術や知識を
何処かで求めます
沢山の情報を求めてしまう

これは「ボトム」に
向かってるとも言えます。

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抽象度の最高位を「空」とするなら
最下位が「ボトム」です

様々な叡智に触れ、
情報を求めることで
複雑化していく様にも観えます。
 
矛盾していく「ボトム」に至る
 
膨大な知識とはある意味で
抽象度を下げる事とも言えるのです

但し、「理」に近づき、
極まるほどに程に
実は「シンプル」になって行きます

故に何かしらを極めた方は
包括された其処に至るんです

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「空」を目指して「空」に至ろうとする
「ボトム」に至り「空」に気付く
 
求めると離れ
離れると近づくパラドックス

結局は、其処に還っていく

どの「ルート」で気付くかは
その方次第なだけです

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我々は「点」から始まり
「点」で終わります
 
小さな一つの細胞が増えていき
最後はその細胞の活動が終わっていく
 
「点」が様々な「識」を得て
何処まで「認知」するかが
「体験の世界」の広がりとなります
 
これが生きているという事です
 
最後は「点」に還ります
そしてその「点」さえ
「有る」とも言えるし「無い」とも言えます
 
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ちょっと仏説的視点で
体験の世界を説明して観ましょう

あっ因みに私「仏教徒」ではないですよ?
無宗教です。

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沢山の知識や技術を身につけて
「悟り」を「体感」へ落とそうと励むのが
仏教で言うと「自利」です

「自利」とは
自らの悟りのために修行し努力すること

自己の修行により得た功徳を
自分だけが受けとることとも言えます

因みに自分のためだけの利益を求めるあり方は
「我利」と呼びます

目指す違いはありますが
「自分だけ」と言う始まりは同様です

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「自利」から始まる
その「悟り」を「語るに見合う」自らを求める

「語るに見合ってから」語れが
「小乗の思想」です

「悟らずとも、今ここで立ち上がる」のが
「大乗の思想」になります

大乗と小乗(上座部)の何方が正しいなどの
宗教的論争に興味はありませんし
今回は其処が着目点ではありませんので
悪しからず。

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さて、
「利他」の本質に「自利」を含まない
此れが「慈悲」と説く教えがありますが

そもそも
「全てが関係性で存在している」
この縁起で世界を観た時

全ては「自他一如」であり
「自他一体」です

「利他」さえ「自利」となり、
「自利」さえ「利他」となります

故に「利他と自利」は
「陰陽」で切り離せないものです

「利他」を目指せとする言葉は
陰陽分離に於ける
生得的生存本能である「我利」
または
知的欲求である悟りたい煩悩の「自利」

ここから
「中庸」に戻す為の
高く観た処から落とした「方便」と
私は捉えています

本来は「自利利他」が「大乗」の本質です

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さて、
現在流行った「鬼滅の刃」におけるあり方に
何やら論争が生まれているところも
あるみたいですが、

あれは娯楽であり楽しむもので、
其れをどーのこーのも
また娯楽に過ぎません。

其処で題材になっているのが
「自己犠牲」の正否ですが、

作品の「自己犠牲」ではなく
「自己犠牲」のみを主として観てみます

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「自己犠牲」とは
「我利我利」を嫌いとする
「大乗文化」の日本においては
賛美されやすいです

これは現代社会が「我利」に寄っているから
「自己犠牲」を「利他」と受け止めてしまう
反動の一つです

「利他」と「自己犠牲」は
決して「イコール」ではありません
ここすごく大事

ここはメール講座でも説明しています

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「自己犠牲」とは己の信念を貫く
「煩悩」でしかなく、「自己満足」です

「自己犠牲」とは周りを顧みない
圧倒的な「利己」であり
「功利主義」の極みです

何に於いても
「犠牲」を良しとする想念は
決して「利他」ではありません

抽象度高く見た場合
「利他」の「他」には
自分も含まれています

1人でも「人」の犠牲が伴う選択は
既に「利他」ではないのです。

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話を戻します

一生懸命に学ぶ人を
「ガリ勉」と称する事があります

この「ガリ」は「我利」から来ています
自分のためだけの利益を
求めるあり方に勉めると言う事です

悟る為に学ぶのは自利勉ですかね?

何にせよ、学ぶ行為は自らの為です。
その先がどうであれ
「我利」か「自利」です

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全てを「利他」にせよと
「我利」や「自利」さえ「否定する」のに

「膨大な知識」の「学びの勧め」は、
言ってる事が「矛盾」して観えます。

そもそも「利他」とは
「今の自ら」で
「他の為」に立ち上がる事です

悟らずとも他に向けて行動する
此れが「大乗」で言うところの
「菩薩行」です

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そして、「ボトム」とは「矛盾」です

先程、「矛盾」していると表現しましたが
「矛盾」を意識に上げ、受け入れる事で
「空」を知ることが出来ます

故に「矛盾」さえも
「自利」には必要な事です
「正否」を説くなら「矛盾」さえ「正しい」

結局は
どちらでも良いと観れることが大事

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「禁断の実」
正否の果実=知恵の実
を食べたが故に

今を観ている事を知る
 
それが良い悪いではなく
結局はそれが我々の生きるエネルギーである

其処を意識に上げておく事が大事です

故に「自利」とは「我々の本質」です

そして沢山の事柄を起こすには
包括した知識や技術も必要です

故に「自利」を「利他」に活かす
「自利利他」が本質なのです
 
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「学ぶ」為に「布施」をして
「悟り」を目指すのは「自利」です

「悟ってから説く」は
「小乗の思想」です

「阿羅漢」を目指してるのなら
それは素晴らしいです

「大乗の思想」で
「自利利他」として生きるのなら

今ここから初めて下さい

今のあなたに
今出来る事は
山程にあります

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「高次元」を認知せんと
「知識」を堪能する
「悟りを求める煩悩」

全てをありのままにと
「煩悩を手放す事さえ煩悩」

「煩悩」とは求める事
「利他」も「自利」も
また「煩悩」です

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「認知」と言う「煩悩」があり

その関係性から
私達は「点」として存在している
此れを受け入れる

この世界は「臨場感」を得て
「体感する認知の世界」です

「有り」もするし「無い」とも言える世界に
「関係性」から「点」が生まれる
それが私達です

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その「点」に「全てが包括」されている
「無い」のではなく、
「全てが有る」のです

臨場感を得たい「体験の煩悩」が
「認知」を求めます

それで良いんです
故にあなたは常に
何も間違っていません

「あなたがどうしたいか?」
だけなんです

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「自他一如」
縁起宇宙で観た時全ては自分

「個」と言う小さな世界から
より「全体」と言う「抽象度」へ上げていく

「包括範囲」を拡げる
自らの「識」を
全体の「識」に拡げていく

その体験こそが生きるという事

そして「個」と言う「点」に
全てが包括されていたと知る

遂には「点」に還っていきます

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「抽象度」を上げれば全ては自分

「個」と言う内側の世界を
より「全体」へ「包括範囲」を拡げる

自らの「自利」を
全体の「利他」へ拡げていく

これが「自利利他」に生きるという事

「外側」へ求めるのではなく
「内側」と向き合い求める事が
「全体」に拡がっていく

全体を「自分」と観れた時、
「他人」さえ「自分」

全体として観、
世界全ての「自分(他人)達」の為に行動する
これが「利他に生きる」方便の本質です。

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「煩悩即菩提」
と言う仏教用語があります

「悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)とは、ともに人間の本性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることである」ウキペ参照

各宗派で解釈が違ったりしますが
其々を私は「方便」と捉えてます

「煩悩」=「菩提」
ではありませんよ?

此れを「表裏一体」の「陰陽」と捉える

この「統合」に向かうのが
「中庸」であり「ニュートラル」に生きる
本質なんじゃ無いかなぁと感じています

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総じて
何が言いたいのかと言いますと
「今のあなたで良いのですよ」
っと言っています

その上で、
どうありたいか?どうしたいか?
「純粋動機」で生きて良いのです。

あなたがどうしたいのか?
あなたがどうありたいのか?

全ては其処に回帰します

あなたの目指す世界は
何処ですか?

創れば良いのです

それこそが
コーチングで言う
「ゴール」です

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悟るも満たすも自在
全ては「有る」から始まっています

それは「選択」が全て決める
「決心」で「決定」されます
 
あなたが「選択」して
あなたが「決める」

その世界が「決定」付けられる
 
それの体験をしていくのが
この世界です
 
その繰り返しなのです
それだけです

あなたの本当に目指したい
ゴールを決定して生きる

そのサポートに特化した形が
コーチングなのです

いつでもお話し伺えます

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是非、あなたの心から目指したい人生を
自在に生きてくださいね。

最後までお読みいただきましてありがとうございます。

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