戦争地域に行きました

集団に於ける「内集団びいき」

社会心理学では、「人の集団は黙っていても対立する」という考えがあります

人は自分と同じグループに属する人に親近感を抱き、もう一方のグループに対抗意識を覚えてしまうのです。

そして「自分が属している集団」に、自分の価値の根拠を置こうとします。

集団にプライドを持つこと自体は問題ありません。しかしそこには、他の集団と張り合う気持ちが隠れています。

個人では「自分はすごい」と口にしない人でも、集団として集まると「自分たちの集団はすごい」と思ってしまうし、口にしてしまう様に、集団だとリミッターが外れます。

これが間違うと、外集団を劣ったものとする差別の論理となり、集団間葛藤に至り、平和を脅かす素地になっていきます。

これに宗教・人種・民族問題が内集団となった際、この極端が民族紛争です。

「内集団びいき」のみで、悲惨な紛争に至ったとは単純に思えませんが、一端ではあることは間違いなかろうかと思います。

ある実験で、

対立している集団間でも、個人レベルでの友好的な接触が増えれば、たとえそれが友人・知人を介した間接的なものであったとしても態度の軟化につながる。

一方で、異なる民族が混じり合っている地域に住む人々は、同じ民族が固まっている地域に住んでいる人々に比べて、日常的に感じているストレスが高いという発表があります。

多くの外国人が暮らし、働くようになった「国際化した日本」

選択を間違えたくないですね。

この「内集団びいき」が避けられないものならば、内集団をもっと広げれば良いのではないかと愚考します。

地域→国→地球→宇宙→生命

人種→人間→哺乳類→動物→生命

宗教→生命→宇宙

何事も、もっと上の視点で観ることが出来れば、争いなど生まれない筈です。

ちょっと、極端でしたが、身近な集団での内や外との関係の際に、この抽象度を上げた、俯瞰した視線は、非常に有効です。

また、この集団で起こる現象は、プラスの力に転じる事も可能な筈です。

其れは互いに切磋琢磨し、昇竜の気概であれば、個の枠を凌駕する力になります。

徒競走では一人で走るよりも、併走した方が記録が伸びます。

集団で学んだ方が勉強も捗ります。

大勢で食べるご飯は美味しく感じます。

誰かが壁を越えると、皆も更に上の壁が超えらるようになる。

集団が心理的に良い効果をもたらすことも多いのです。

其れはエネルギーを良い方向に向けた時です。

皆が其々がゴールを持ち、其れに向けて切磋琢磨する。

ゴールに向けた自己効用感を皆で高め合う事で、ゴールの臨場感が高まり、確信度が上がります。「俺たちは凄い!俺たちは出来る!」がプラスに転じます。

エネルギーは内や外に向けるのではなく、上に向けるものです。

その為にも、ゴールは現状の外であることが重要です。

そして、そのゴールは抽象度が高いこと、これもまた大事なのです。

人は、其々目指すゴールがある筈です。

本当に目指したい其れに向かっていれば、外をとやかく批判するエネルギーなど必要ない筈です。

争いの無い世界。その可能世界は存在する。

私はそう信じています。

さて、以下は写真の説明です。

更に、後半はボスニア紛争の説明まで書いてしまいました。

民族紛争とは何か?

全てを書ききれませんでしたが、これからの日本が選んではならない末路を、教訓に知っておくことは、無駄ではなかろうかと存じます。

以下ご興味があればどうぞ。

丁度、20代前半の写真です。

当時、私はボスニア紛争やコソボ紛争など、1990年代~の革命真っ只中の東ヨーロッパを担当しておりました。

この写真はデイトン合意後に、外務大臣とボスニアのサラエボ訪問に同行した時のものです。

当時は国連の支配下にあり、空港も国連軍が抑えていて、民間機は運営されていなかったので、ウィーンから飛行機をチャーターして入りました。

日本で電話や電報でのやり取り、そしてCNNの映像で、現地を確認出来ていたつもりでしたが、現場は圧倒的でした。終戦直後の戦争地帯。

戦闘や事件の起こった主要箇所を巡りました。

その際、道路は歩道を歩くなと現地の者に言われました。

地雷を踏むより、車に轢かれた方がましだと。

途中学校にも寄り、文具類を配りました。

子供たちはめちゃめちゃ元気でした。

余談ですが、後日、故小渕大臣が訪問し、その際に子供たちにTシャツを配ったのですが、そのデザインは私が創りました。しかも一太郎でw

弾痕の残る戦争の現場は凄い臨場感でしたが、町はみんな明るく元気な印象でした。暗黒の4年間が終わったのですから当然でしょうね。

最後に、当時はまだ整備させていない、見えないところまで続く墓地は、言葉がありませんでした。

こんな悲惨な事は、あってはならない。其れが日常だった日々など狂っている。

日本に生まれ、生活できていることがどれだけ幸せな事なのか?心底感じました。

凄惨な状態の国の復興に、日本が予算を出すことに、異論があるのは解らないでもないですが、この豊かな国に流れているエネルギーを、エネルギーの足りないところに回し、循環を促すことは、結果世界を救うことになり、それは自分を救うことでもある。

日本人として生きるのではなく、世界人、地球人、宇宙人として生きる事が重要なんだと。

と、帰りの飛行機で考えた事を、今でも忘れません。

以下 ボスニア紛争の簡単な説明です

かなり端折ってますので、細かいところ言いっこ無しでお願いします。

日本人には馴染みの薄いボスニア紛争

これ、第2次世界大戦以降最悪の民族紛争と言われていた戦争です。

簡単に説明しますと3民族が住んでた町で3民族で銃を向け合ってしまった紛争です

セルビア人33%=セルビア正教会

ムスリム人44%(ボシュニャク人)=イスラム教

クロアチア人17%=カトリック教

(%は紛争前1992年人口430万人の比率)

歴史から遡ります

このバルカン半島の地は、もともと複数の他民族の住む地域で、オスマントルコに支配され、改宗した者がムスリム人となりました。

その際、改宗しなかったセルビア人はムスリムとなったものから虐げられ、深い禍根となります。

その後、オスマントルコは衰退し、ハンガリーオーストリア帝国に支配されます。これにセルビア人が反感を持ち、第1次世界大戦の発端であるサラエボ事件が起きます。

第2次世界大戦時は、ナチスの属国クロアチア独立国が支配し、クロアチア人がユダヤ人やセルビア人に対して民族浄化を実行します。

これに対し、セルビア人民族主義者は報復として、クロアチア人とムスリム人に対して民族浄化を実行します。

歴史に3民族が深い禍根を残していたのです。

その後、チトー大統領がユーゴスラビア社会主義共和国を創り、民族主義を取り締まりました。

ソ連からも影響を受けず、言論の自由のある社会主義国となり、平和が続きます。

しかし、チトー大統領が逝去後、民族主義が復活。

クロアチア人とムスリム人が独立したいと言い出し、ユーゴの中心であるセルビア人は反発し、自治区を作り対抗。

クロアチア人とムスリム人は、独立国ボスニアヘルツェゴビナ連邦の住民投票を強行します。

当然セルビア人はボイコット。結果独立してしまい、ECに独立を認めさせてしまいます。

セルビア人は、俺たちも独立すると言い出し「スルプスカ共和国」を名乗ります。

これをユーゴスラビア本国が支援します。

「セルビア人 VS クロアチア人ムスリム人」での軍事行動が始まります。

しかし、セルビア人とクロアチア人が領土の分割交渉をムスリム人の居ないところで行い、ムスリム人が激怒し、ムスリム人がクロアチア人に対して軍事行動を開始。

遂に

「セルビア人 VS クロアチア人 VS ムスリム人」の三つ巴民族紛争に至ります

泥沼化する民族紛争の中、ユーゴスラビアの後ろ盾があるセルビア人優性。

サラエボを包囲し、大掛かりな民族浄化を始めます。

其処に見かねたアメリカが介入してきます。

クロアチア人とムスリム人の代表を引き合わせ、同盟を結ばせ、西側諸国がクロアチア人とムスリム人に軍事支援することを約束します。

3つ巴が崩れ

「セルビア人(軍事支援ユーゴ) VS クロアチア人ムスリム人(軍事支援西側諸国)」

あるきっかけでNATOはセルビア軍に空爆を開始。そして、国連軍が展開します。

しかし、セルビア人はこの国連軍を捕縛。人質に取ります。

NATOの空爆が一時止まり、セルビア人は大規模な民族浄化作戦を再開してしまいます。

っと書くと、セルビア人が一方的に悪く歴史に残りますが、実際はクロアチア人ムスリム人も同様に、セルビア人に対して民族浄化を行っています。

その民族浄化の対象が、軍ではなく、一般市民だということ。

これが最悪な民族紛争の由縁です。

民族浄化とは、余りにも凄惨なので此処では詳しく表現しません。

最終的には紛争は泥沼化

其々が疲弊しきったところで、3代表からなる合意がなされ、クロアチア人とムスリム人の「ボスニア連邦」とセルビア人の「スルプスカ共和国」を併せた、「ボスニア共和国」が誕生しました。

4年間の紛争で死者20万人難民200万人を出し、見えない子供達やPTSD患者など、沢山の社会的問題を残した、最悪の紛争に幕がおり、これで終わるかと思ったら、コソボ紛争が始まります。

さて、これは決して対岸の火事ではないのです。アジアの身近でも起き得る話です。

最後に、

これは私の夢だったかもしれません。

なんだっても20年以上も前の話です。

そんな話をして、この話を終わりにしたいと存じます。

この紛争でNATOの空爆が勝敗を分けました。問題はその発端です。

セルビア軍がサラエボを包囲した時、青空市場を砲撃し、一般市民に大量の死傷者を出しました。その際NATOはこの非人道的攻撃を許さず、砲撃武器を解除しなければ一方的に空爆を開始すると警告しました。セルビア軍は期限ぎりぎりで武装解除します。

その後、青空市場でまた同様の爆発が起こります。また、一般市民に死傷者が出ることになり、世界世論に「セルビア軍がまた砲撃した!許さまじ」の空気が燃え上がり、遂にNATOの空爆が開始されます。

その青空市場にも足を運びました。その際武官(防衛省員)と現場を確認しました。我々はなんとなく知っていました。それを現場で確認しました。

砲撃跡からどの様にボールを投げても、セルビア軍の居た丘に、ボールが届かないことを。

青空市場の弾痕には、赤い樹脂での保存がされているのだということです。

果たして、我々が確認した2回目の弾痕は、残っているでしょうか?

此処の部分はきっとフィクションです。

最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。

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