<嫌われる勇気>⑦ 第5夜「「いま、ここ」を真剣に生きる」後半

こんばんは!!

本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!

 

「嫌われる勇気」 2013年12月の発売以降、累計180万部を超えた大ベストセラーの本書。5年が経とうとしている2018年 遂に本書を手に取り、読了致しました。

私にとって非常に気付きの多い書となりました。

 

つきましては、皆さんにも興味を持って頂きたく、更には私自身の理解を深めたい理由から、私なりにまとめてみたいと思います。

当ブログを参考にして頂き、ご興味が沸きましたら、本書を読んでみて下さいませ。

 

今日は遂に最終回!!

第5夜「「いま、ここ」を真剣に生きる」後半です。

どうぞ、最後までお付き合い下さいませ

 

以下本文

 

世界は何処までもシンプルである

複雑に感じるなら、自身が世界を複雑にしている

世界がどうあるかでは無く、自身がどうあるかであり、世界を直視するパラダイムシフトを行う勇気があれば、人は変われ、幸福になることが出来る

 

第5夜「いま、ここ」を真剣に生きる

 

世の中は善人ばかりではありません。対人関係で不愉快な思いにさらされることもあるでしょう。しかし、間違ってはならないのは、攻撃してくる「その人」に問題があるだけで、決して「みんな」が悪いわけではないという事実です。

 

神経症的なライフスタイルを持ってしまった人は、「みんな」「いつも」「すべて」という言葉を多用します。こうした生き方をアドラーは「人生の調和」を欠いた生き方だと考えます。

 

ユダヤ人の教えに「10人の人がいるたしたら、1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌い、あなたも好きになれない。また10人の内2人は、お互いに全て受け容れ合える親友になれる。残り7人はどちらでもない人だ」

 

あなたを嫌う1人に着目するのか?親友たる2人にフォーカスするのか?その他大勢の7人に意識を向けてしまうのか? 焦点を当てる先を間違ってはなりません。

どうでもいい筈の極一部分だけに焦点を当てて、其処から世界全体を評価しようとする人を、「人生の調和」を欠いた誤ったライフスタイルと言えるでしょう。

 

人間の最大の不幸は、自分が好きになれないことです。

人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えたときだけ、自らの価値を実感できます。

その貢献とは、目に見えるかたちでなくとも構わないのです。

誰かの役に立ている主観的な感覚を、「貢献感」を持てればそれでよいのです。

すなわち「幸福とは、貢献感である」

 

しかし、承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がありません。

われわれは自由を選びながら、幸福を目指す存在。

共同体感覚さえあれば、他者からの承認など、必要ないのです。

 

人は「特別な存在」でありたいと願います。

しかし、ここで「安直な優位性の追求」に陥る危険が伴います。

人は「特別に良くあろう」と努力し、「特別にあること」が叶わなかった場合、今度は一転し「特別に悪くあろう」としてしまうのです。

 

「特別に良くあろうとする」ことも、「特別に悪くあろうとする」ことも、目的が同じだからです。他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になること。これが目的になります。

本来、結果を出すためには、一定の努力が必要です。ところが「特別に悪くあろう」とする者は、そうした健全な努力を回避したまま注目を集めようとします。これを「安直な優越性の追求」と呼びます。

相手を困らせながら、同時に「特別」であろうとしてしまうのです。

 

まさにソクラテスのパラドックス「誰一人悪を欲する人はいない」。

問題行動に走る者達にとっては、迷惑行為さえ目的を有した「善」の遂行なのです。

 

「特別に良くある」ことが挫かれた時、「特別に悪く」ことへと極端な飛躍をしてしまうのであれば、アドラー心理学では「普通であることの勇気」を目指します。

「自己受容」は、その重要な一歩なのです。「普通であること」は「無能であること」と同義ではありません。わざわざ自らの優位性を誇示する必要などないのです。

 

では、特別な存在を目指すということは、言い換えれば、人生に高邁なる目標があり、その山頂を目指すイメージになるかと存じます。その視点で考えてみましょう。

 

山の頂を目指すということは、人生の大半は「途上」というこうとなります。山頂に至るところから「ほんとうの人生」と考えると、至るまでの道のりは「仮のわたしによる仮の人生」といえるでしょう。

 

では、山頂に至れなかった場合はどうなるのでしょうか?「途上」のまま、「仮のわたしによる仮の人生」のまま、人生が中断される。その人生とはなんなのでしょうか?自業自得と結論付けるのでしょうか?

 

アドラー心理学はこれを否定します。

人生を登山のように考えてしまうと、自らの人生を「線」で捉えています。

生まれた瞬間から始まった線が、大小様々なカーブを描きながら頂点を目指し、やがて死という終点を迎えるのだと。

この人生を物語のように捉える発想は、フロイトの原因論に繋がる発想で、人生の大半を「途上」としてしまう、苦行の人生の考えかたです。

 

人生は「線」ではなく、「点」の連続です。

 

線のように映る生は、実は点の連続であり、すなわち人生とは、「連続する刹那」

「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることが出来ない。われわれの生は、刹那の中にしか存在しないのです。

 

にもかかわらず、大人達は「線」の人生を若者に押し付けます。

いい大学、大きな企業、安定した家庭・・・そんなレールに乗ることが幸福な人生だと。そんな線など存在しないのです。われわれの人生は「点」の連続です。計画的な人生など、必要or不必要の以前に、不可能なのです。

 

人生とは、いまこの瞬間をダンスするように生きる、連続する刹那です。

ダンスを踊る「いま、ここ」が充実していれば、いずれの生も「途上」で終わったことにならないのです。

 

無論、踊った結果として何処かに到達することはあるでしょう。しかし、其処に止まることはなく、踊り続ける。目的地は存在しないのです。

 

アリストテレス哲学では、目的地に到達せんとする人生を「キーネーシス的な人生」
と呼びます。これに対して、ダンスを踊るような人生を「エネルゲイア的な人生」といえるでしょう。

 

キーネーシスとは、始点と終点のある一般的運動のことです。

故に出来るだけ効率的且つ速やかに達成されることが望ましく、目的地にたどり着くまでの道のりは、目的に到達していないと意味於いて不完全である。

これが「キーネーシス的な人生」です

 

一方エネルゲイアとは、「今成しつつある」ことが、そのまま「成してしまった」ことであるような動きです。「過程そのものを、結果と見なすような動き」です。

これが「エネルゲイア的な人生」です。

 

では敢えて登山で考えてみましょう。

「キーネーシス的」に考えると登頂することが目的になります。ヘリコプターで山頂に向かい、山頂に降りて、直ぐにヘリコプターで帰る。仮に辿り着けなかったら失敗です。

 

「エネルゲイア的」に考えると登山が目的になります。結果として、山頂にたどり着くかどうかは関係ない訳です。

 

アドラー心理学は原因論を否定しました。これは過去思考の否定になります。

そして、「エネルゲイア的な人生」を説くことによって、計画性を否定しました。これは未来の否定になります。前も後ろも見えない状態。これで良いと考えます。

 

それは、「いま、ここ」にスポットライトが当たっている状態。今に強烈なスポットライトが当てていたら、過去も未来も見えなくなるのです。

「いま、ここ」を真剣に生きろということです。人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しないのです。連続する刹那であることを理解すれば、物語は必要なくなるでしょう。

 

「いま、ここ」にスポットライトを当てるということは、今出来ることを真剣かつ丁寧にやるということです。どこに到達したかを線で見るのではなく、どう生きたのか、その刹那を見ていくのです。

 

遠い将来に目標を設定し、いまはその準備期間だと考える。「本当はこれがしたいけど、やるべき時がきたらやろう」。これは先延ばしにする人生です。「いま、ここ」は準備期間でも、我慢の時期でもありません。「いま、ここ」は本番なのです。

 

「いま、ここ」を真剣に生きる。

深刻ではありません。ここを間違えてはなりません。

それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要など無いのです。

 

そして、エネルゲイア的視点に立った時、人生は常に完結しているのです。

仮に「いま、ここ」で人生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきものではありません。

常に完結した生であり、幸福な生なのです。

 

最後に、「人生の最大の嘘」は何かをお伝えします

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。

 

「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去と未来ばかりに光りを当て、掛け替えのない刹那に、大いなる嘘を付く。

人生の嘘を振り払い、怖れることなく「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てるのです。そして、決めるのは昨日でも明日でもない。「いま、ここ」です。

 

人生の意味とはなにか? 人は何のために生きるのか?

アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」でした。

 

戦禍や天災の様に、理不尽な出来事は、隣り合わせに存在してます。

巻き込まれてしまった人達を前に、「人生の意味」など語れるはずもありません。

 

そして、不条理な悲劇を前に、なにも行動しないのは、悲劇の肯定です。

どんな状況であれ、なんらかの行動をおこさなければなりません。

 

原因論的に「何故こんなことに・・・」と過去を振り返ることに、どれだけの意味がありますか? 「これからなにができるか?」を考えるべきなのです。

 

アドラーは「一般的な人生の意味はない」と語った後、こう続きます。

「人生の意味は、あなた自分自身が与えるものだ」と。

 

自由を選ぶのです。他者から嫌われることを怖れず、他所の人生を生きない、自分だけの道を。

 

人が自由を選ぼうとした時、道に迷うことは当然ながらあります。

そこで、アドラー心理学では、自由なる人生の大きな指針として「導きの星」というものを掲げます。この指針さえ見失わなければ、此方の方向に進んでいれば幸福が、という巨大な理想。

それは 「他者貢献」 です。

 

「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことも、なにをしてもよい。嫌われる人に嫌われ、自由に生きて構わない。

「いま、ここ」を真剣に生きましょう。過去も未来も見ない、完結した刹那を。

誰かとの競争も、目的地もいりません。踊っていれば何処かに辿り着くのです。

 

「ひとりの力は大きい」、「わたしの力は計り知れないほど大きい」

「わたし」が変われば「世界」は変わる

「世界」とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、「わたし」によってしか変わり得ない。

 

新しいパラダイムを手に入れた時、人はこれをもっと早く知りたかったと思います。

それは間違いです。「いまのあなた」に響いているからこそ、そう思っているのです。

もっと早くにこのパラダイムにであっていても、どう感じ取ったかはわからないです。

「いま、ここ」だから必要だったのです。

 

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたに関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかではなく」世界はシンプルであり、人生もまた同じである。

 

以上が「嫌われる勇気」のまとめになります。

 

 

正直、この第5夜後半については、違和感が拭えず、何度も何度も読み返しました。

このままの内容では、私は附に落とすことは出来ませんでした。

故に、次のとおり、自己解釈アレンジをしてみました。

 

「特別な存在」の話

他者承認の「特別な存在」のことを言っていますね。エフィカシー(自己効力感)の高いノットノーマルを目指せを、否定している訳ではないなら理解できます。

 

「連続する刹那」の話

一念三千刹那瞬の論理。宇宙は一瞬で生まれて、一瞬で消える。

われわれは常に消滅して生まれる。映画のフィルムの一こま一こまの存在である

過去は存在しておらず、未来も結実した瞬間に消える。

時間軸を理解し、この世界は4次元で
あることに気がつき、社会的機能を果たす。

その縁起に意味を持たせる生き方。それが刹那的に生きるということ。

それが、アドラーの言う「いま、ここ」を生きるというならば、理解できます。

 

「キーネーシス的な人生」の否定の話

キーネーシスとは運動。

目的をもち、そこを終点とした限界の中にある不完全(未完成)な行為。活動の主体が外部にあり動かされるもの。時間の内にある、物理的運動に類する行為。

更新の無いゴールの否定ならば、理解できます

 

「エネルゲイア的な人生」の肯定の話

エネルゲイアとは活動。

目的が内在し、限界(終点)を持たない完全な行為。活動の主体が動くもの自身である。時間を有しない。精神や心の運動に関する行為。

常にゴールを設定し、ゴールを更新し続ける行為のことならば、理解できます。

 

「未来の目標の否定」の話

これは現状の延長線の未来否定であり、今の状態から予測できる、レールの人生の否定であるならば、理解できます。

 

「導きの星=他者貢献」

コーチング理論では、ゴールは利他的が望ましいとしてます。

故にこの導きの星がゴールと考えるのならば、理解できます。

 

以上かなりこじつけな部分もありますが、ご勘弁を下さいませ

 

さて、

本書に出会うまで、対人関係に於いて、何故この人はこの様な行動を取ってくるのだろうと理解に苦しむことが多かったのですが、本書に合致する事が多く、整理がつきました。

 

「わたし」が変われば「世界」は変わる。「世界」とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、「わたし」によってしか変わり得ない。

この言葉に全てが集約していますが、私自身の中を変えることで、本当に世界が変わりました。

 

わたしの中の様々な余計な言葉達が、わたしの本当のwant toを遮っている。

其れを認識することが大切で、ありのままを受け容れる事で、それぞれを意識に上げ、選択していく。そして其れを実行する「勇気」が、幸福になる「勇気」

 

本書は本当に素晴らしく、私にアドラー心理学への扉を開いてくれました。

その他の本も是非読んでみたいと思います。

 

しかしながら、この考え方が絶対だと、全てをこれだけのパラダイムで見ることは、妄信です。

この世には様々な考え方がありますが、絶対的に正しいアプリオリは存在しないのですから、この様な考え方もあるのだなと、否定も肯定もせず、ありのままを情報として解するのが良いのでしょう。

そして、自分に必要な部分を、自分の人生に活用していくのです。

 

本当に素晴らしい本に出会えたことに感謝です。

 

シリーズ「嫌われる勇気」これで終わりとなります。

最後までお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。

 

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA