<嫌われる勇気>⑤ 第4夜「世界の中心はどこにあるのか」

こんにちは!!

本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!

 

「嫌われる勇気」 2013年12月の発売以降、累計180万部を超えた大ベストセラーの本書。5年が経とうとしている2018年 遂に本書を手に取り、読了致しました。

私にとって非常に気付きの多い書となりました。

 

つきましては、皆さんにも興味を持って頂きたく、更には私自身の理解を深めたい理由から、私なりにまとめてみたいと思います。

当ブログを参考にして頂き、ご興味が沸きましたら、本書を読んでみて下さいませ。

 

今日は第4夜「世界の中心はどこにあるのか」です。

どうぞ、最後までお付き合い下さいませ

 

以下本文

 

世界は何処までもシンプルである

複雑に感じるなら、自身が世界を複雑にしている

世界がどうあるかでは無く、自身がどうあるかであり、世界を直視するパラダイムシフトを行う勇気があれば、人は変われ、幸福になることが出来る

 

第4夜「世界の中心は何処にあるのか」

 

対人関係のゴールは「共同体感覚」

他者を仲間だとみなし、其処に「自分の居場所がある」と感じられることを、「共同体感覚」といいます。

 

アドラーが述べる「共同体」とは、家庭や学校、職場、地域社会のみならず、国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸に於いては過去から未来までを含み、動植物や無機物までも含まれます。過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ「すべて」が共同体なのだと提唱しています。

 

共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える。最も重要な指標です。

共同体感覚を理解するには、まず「わたしとあなた」を起点にし、自己への執着を、他者への関心に切り替えていくのです。

 

「自己への執着」を「自己中心的」と言い換えます。「自己中心的」とは、自分の都合しか考えず、境は自分の中心に回っていると考える様な、自分勝手な人物。

じつは、「課題の分離」が出来て折らず、承認欲求に囚われている人もまた、極めて自己中心的なのです。承認欲求に囚われている人は、他者を見ているようで、実際は自分のことしか見ていません。「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない、自己中心的なライフスタイルと言えます。

 

自分の人生における主人公は「わたし」です。しかし、「わたし」は世界の中心に君臨しているのではない。あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

 

自分にしか興味のない人にとって、他者とは「わたしのためになにかをしてくれる人」と考えており、「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ばかり考えています。

当然ながら、その期待が毎回満たされるわけではありません。すると大きく失望し、ひどい侮辱を受けたと感じ、憤慨します。「あの人は裏切った。もう仲間ではない」と思考します。

そこは「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるのか?」と考えなければなりません。それが共同体へのコミットです。

そして所属感とは、生まれながらに与えられるのではなく、自らの手で獲得していくものなのです。

 

共同体の範囲は「無限大」です。われわれは複数の共同体に属しています。家庭に属し、学校に属し、企業に属し、地域社会に属し、国家に属し、世界に属し、宇宙に属しと範囲は無限大なのです。

 

行動の原則があります。対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなったとき、先ず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。

当該の共同体の共通感覚で物事を判断せず、より大きな共同体の共通感覚に従うのです。理不尽な要求を突きつけられたら、正面から異を唱えて構わないのです。仮に異を唱えたことで崩れてしまう関係なら、最初から結ぶ必要もない。こちらから捨ててしまって構わないのです。

関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。目の前の小さな共同体に固執することはありません。もっと大きな共同体から見るのです。

 

横の関係

あらゆる育成の場面で、褒めて育てるか?叱って育てるか?

アドラー心理学では、褒めることも叱ることも行ってはいけないとします。

ほめると言う行為は「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面がふくまれます。われわれが他者を褒めたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いであり、背後にあるのは操作です。

 

アドラー心理学が賞罰教育を強く否定するのは、それが子供の操作するためだからです。

アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とることを提唱します。ある意味ここはアドラー心理学の根本原理です。

 

そもそも劣等感とは、縦の関係の中から生じる意識です。「同じではないけれど対等」といった横の関係を築く事が出来ていれば、劣等コンプレックスが生まれる余地が無くなります。

 

勇気づけ

「課題の分離」での説明の際にでた「介入」は、何故起こるのか?

それは縦の関係のためです。対人関係を縦で捉え、相手を自分より低く見てるからこそ、介入してしまうのです。介入は操作に他なりません。本人は善意による働きかけのつもりかもしれませんが、結局は土足で踏み込み、自分の意図する方向へ操作しようとしているのです。

 

横の関係になれば「介入」がなくなり、「援助」になります。援助とは、課題の分離があり、横の関係があります。そして自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのです。それは強制では無く、自力解決への援助なのです。課題に立ち向かうのは本人です。

そして、それの働きかけは、褒めるのでも叱るのでもありません。横の関係に基づく援助とは、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。

 

この勇気づけは、褒めることではありません。人は他者から褒められるほど「自分に能力がない」という信念を形成していきます。注意が必要です。仮に褒めて貰うことを喜びに感じているなら、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めているのと同じです。

 

では具体的にどの様なアプローチが最良なのでしょう?「ありがとう」「助かった」とお礼を伝える。これが横の関
係の勇気づけのアプローチです。大切なことは他者を評価をしないことです。評価の言葉は縦の関係から出る言葉です。横の関係は、素直に感謝や尊敬、喜びの言葉が出てきます。

 

人はこの感謝の言葉を聞いたと、自らが他者に貢献出来たことを知ります。

「人は、自分には価値があると思えたときだけ、勇気をもてる」のです。人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときこそ、自らの価値を実感できます。自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えることです。

そして「人は生きているだけで人の役にたっているし、生きているだけで自らの価値を実感できる」のです。

 

ふたたび横の関係

先ずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくことから始めましょう。

 

縦の関係を築くか?横の関係を築くか?ライフスタイルの問題です。人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けれるほど器用な存在ではなく、縦か横かどちらか1方しか選べないのです。もし、あなたが誰一人とでも縦の関係を築いているとしたら、自分でも気が付かない内に、あらゆる対人関係を「縦」で捉えているのです。

 

逆に考えれば、一人でも横の関係を築くことができたら、本当の意味で対等な関係を築くことができたなら、それはライフスタイルの大逆転。ここを突破口にsて、あらゆる対人関係が「横」になっていきます。

 

勿論、会社組織なら職責の違いはあります。誰とでもフレンドリーに馴れ馴れしく付き合えと言っているのではありません。意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。交友のタスクに一定の勇気が必要ですが、年齢も社会的地位も関係ないのです。

 

今回重要なキーワードは、「共同体感覚」というアドラー心理学の最重要概念の一つです。

「縁起」、「博愛」に共通する考え方だなってのが印象でした。どの思想も表現や主張はそれぞれですが、根幹的な部分は普遍なのですね。

目的論や課題の分離だけに着目すると、協調性が無く、個人主義的考えた方だなと勘違いしてしまいますが、この共同体感覚で社会性が帯びますね。

そもそもアドラー心理学は個人心理学という名称が、個人主義との誤解を招くところですが、反対で、人間をこれ以上分割できない存在だととらえ、「全体とわたし」を考える「全体論」なのです。

 

 

次回は、第五夜「いま、ここ」を真剣に生きる をまとめていきたいと思います

最後までお読み頂きまして、ありがとうございます

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