<嫌われる勇気>③ 第2夜「すべての悩みは対人関係」後半

こんばんは!!

本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!

「嫌われる勇気」 

2013年12月の発売以降、累計180万部を超えた大ベストセラーの本書。

皆さんにも興味を持って頂きたく、まとめております。

当ブログを参考にして頂き、ご興味が沸きましたら、本書を読んでみて下さいませ。

今日は、昨日の続き第2夜「すべての悩みは対人関係」後半です。

どうぞ、最後までお付き合い下さいませ

以下本文

<人生は他者との競争ではない>

「優越性の追求」とは他者より優れようとする欲求などではなく、自らの足を一歩前に踏みだす意志です。誰とも競争をすることなく、ただ前を向いて歩いていけば良いのです。

健全な劣等感とは、他者との比較の中に生まれるのではなく理想の自分との比較から生まれるものです。

他者との間に違いはあります、しかし「同じではないけれど対等」なのです。すべての人間は「同じではないけれど対等」であり、子供も大人扱いではなく「人間扱い」するのです。

われわれの歩いている道は、前を歩こうと、後ろを歩こうと関係がない、縦の軸が生じない、平らな空間を歩んでいます。誰かとの比較で競争など無意味で、今の自分よりも前に進むことこそ、価値があるのです。

対人関係の軸に競争があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸からのがれられません。

競争や勝ち負けを意識すると、劣等コンプレックスや優越コンプレックスに辿り着き、他者全般を、ひいては世界を敵だと見なすようになるのです。しかし、他者はあなたをそれほど意識もみてもおらず、意識しているのは自分だけなのです。

他者の成功を祝福出来ないのは、自分が負けた様に捉えるからです。

人や世界を比較の対象として、競争の敵と捉えず、「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できれば、世界の見え方はまるで変わります。

また、此方にその気がないのに、面罵するような輩に対して、腹を立ててはなりません。その輩の隠し持つ「目的」を考えます。相手の言動に腹が立ってしまった時は、相手が「権力争い」を挑んできてます。勝つことによって自らの力を証明したいのです。この喧嘩も買ってはいけません。

仮に言い争いを制したとしましょう。敗北を認めた相手が潔く引き下がったとしましょう。しかし、「権力争い」はここで終わりません。争いの敗れた相手は復讐の段階にはいります。なにかしら復讐を画策し、報復行為に出ます。

例として、親に虐げられた子供が非行に走る、不登校、リストカットなど、行うことで親を困らせる。これは親への復讐が目的なのです。

対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決は殆ど不可能になります。そうならない為にも、権力争いを挑まれても、絶対に乗ってはならないのです。

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、既に権力争いに足を踏み入れているのです。そもそも主張の正しさは、勝ち負けは関係ありません。あなたが正しいと思うなら、他の人がどんな意見であれ、其処で完結するべき話です。

ところが、「権力争い」に突入し、他者を屈服させようとしてしまう。

だからこそ「自分の誤りを認めること」が「負けを認めること」と考えてしまうのです。

「誤りを認めること」、「謝罪の言葉を述べること」、「権力争いから降りること」、これはいずれも「負け」ではありません。競争の勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えることが出来るのです。

「優越性の欲求」とは他者との競争によって行うものではないのです。

さて、私は団塊ジュニアで、同世代の人口が多く、この競争社会に巻き込まれる率が高く、闘士が多い世代でもあります。

幼少期から勝ち抜く論理の中で、常に権力争いを挑み挑まれ、勝ち負け、復讐し復讐され、競争の闘いを続けてきました。正直得るものも多く、大きかった。この闘いがあったからこそ、見れる景色もありました。しかし、それは諸刃の剣であり、失うものも多くありました。

競争は、瞬発力や原動力にはなります。淘汰の恐怖が足を止める事を許さないので、常に前進を促します。ただ、とどのつまりは劣等と優越しか存在せず、突き進む度に虚無という穴が出来、その穴を埋めるため、また別の穴が出来る。いつしかやらなければならないといった脅迫観念が後ろに立ち、本来の自分のやりたかったことが見えなくなる。偽りの幸福や楽しみを身に纏い、他者の人生を歩んでしまう可能性が高まります。

其処に気が付き、「見直すことが出来るか?」or「走り続けるか?」 どちらが正しいということはありませんが、ここで道は大きく変わり、見える世界も大きくかわる。そう感じています。

勘違いしてはならないことがあります。闘い抜いたからこそ、この極地至れた事実です。行動を起こさず、論理だけでは、本当の理解は無いのではないかと思います。

大切なことは、常に「自分の意志で行動をする事」だと感じています。

話がそれそうなので、本編に戻りましょう。

<直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか>

アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方に次の目標を掲げています。

行動面の目標

①     自立すること

②     社会と調和して暮らせること

心理面の目標

①     私には能力がある、という意識

②     人々は私の仲間である、という意識

これらの目標は、アドラーのいう「人生のタスク」と向き合うことで達成できるといいます。

人生の成長過程生まれる対人関係を「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つに分け、まとめて「人生のタスク」と呼んできます。

これは対人関係の軸、距離と深さであり、アドラーは「3つの絆」と言う表現をつかうこともありました。

ひとりの個人が、社会的な存在と相手生きていこうとする時、直面せざる得ない対人関係。それが人生のタスクです。

「仕事のタスク」

何の種類の仕事であれ、ひとりで完結する仕事はありません。

他者との協力を無くして成立する仕事など無いのです。

仕事の1点に結ばれている関係なので、対人関係の距離の深さは一番ハードルが低い

この対人関係につまずいてしまったのが、ニートや引きこもりです。核にあるのは対人関係なのです。

「交友のタスク」

広い意味での友人関係です。

仕事のような強制力が働かないので、踏みだすのも深めるのも難しい関係になります。

友達や知り合いに数の多さには何の価値も無く、考えるべきは関係の距離と深さです。

「愛のタスク」

距離が近く、関係も深いのでもっとも難しいタスクとなります。

人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えた時、愛を実感することが出来ます。劣等感を抱くまでもなく、優越性を誇示する必要にも駆られず、平穏な極めて自然な状態でいられる。

アドラーはいいます「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、お互いを対等の人格とし扱わなければならない」と。

他者が「敵」に見え、「仲間」だとは思えないのは、この「人生のタスク」から逃げです。

ある人が嫌いだとします。それはその人の欠点が許せないからではなく、「その人を嫌いになる」目的が先にあり、その目的に見合った欠点を後から見つけています。

何故か? 「その人との人間関係を回避したい」のです。

「この関係を終わらせたい」と決心し、関係を終わらせる為の材料探しを始めているのです。相手は何も変わっていません。自分の目的が変わっただけです。

人はその気になれば、欠点や短所をいくらでも見つけだすことが出来る身勝手な生き物です。つまり、世界はいつでも危険なところになりうるし、あらゆる他者を「敵」と見なすことも可能なのです。

故に、「人生のタスク」、対人関係を回避するために、他者の欠点をでっち上げ、敵と思うことで逃げているのです。

アドラーは様々な口実を設けて「人生のタスク」を回避使用とする事態を指して「人生の嘘」と呼びました。

今のライフスタイルを選択したのは他でもなく自分です。責任の所在は明らかです。

間違ってはならないのは、「人生のタスク」を回避し、「人生の嘘」にすがったとしても、それは道徳的価値観から糾弾される問題ではなく、「勇気」の問題なのです。

アドラー心理学とは「勇気の心理学」

アドラー心理学とは「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」

目的論の立場に立って、自らの人生を、ライフスタイルを、自らの手で選ぶ為の心理学なのです。

この第2夜では対人関係の仕組みと、人生のタスク、人生の嘘を確認しました。

目的論から紐解くと、人が如何に怠惰であるかを実感します。

問題に立ち向かい、問題を解決する。幸せを目指し先に進む。

これは現状から出る行為であり、エネルギーのいる行動です。

人が怠惰であるのは、生命存続の為の省エネ選択が関係しているといわれています。

如何に現状維持並びに省エネ行動を肯定させるかに、脳をクリエイティブに使うのでは無く、先に進むために脳を使わなければなりません。

次回、第3夜「他者の課題を切り捨てる」では方法論を学びます。

最後まで、お読み頂きましてありがとうございます

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