<嫌われる勇気>⑥ 第5夜「「いま、ここ」を真剣に生きる」前半
こんばんは!!
本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!
「嫌われる勇気」 2013年12月の発売以降、累計180万部を超えた大ベストセラーの本書。5年が経とうとしている2018年 遂に本書を手に取り、読了致しました。
私にとって非常に気付きの多い書となりました。
つきましては、皆さんにも興味を持って頂きたく、更には私自身の理解を深めたい理由から、私なりにまとめてみたいと思います。
当ブログを参考にして頂き、ご興味が沸きましたら、本書を読んでみて下さいませ。
今日は第5夜「「いま、ここ」を真剣に生きる」前半です。
どうぞ、最後までお付き合い下さいませ
以下本文
世界は何処までもシンプルである
複雑に感じるなら、自身が世界を複雑にしている
世界がどうあるかでは無く、自身がどうあるかであり、世界を直視するパラダイムシフトを行う勇気があれば、人は変われ、幸福になることが出来る
第5夜「いま、ここ」を真剣に生きる
先ず、自意識がブレーキを掛け、無邪気に振る舞うことができないかったとします。
目的論で考察したとして、無邪気な振る舞いにブレーキを掛けることで、何を得ようとしているのでしょう?
「無邪気な自分」=「ありのままの自分」に自身が持てない。故にありのままの自分による対人関係を回避しようとしている。
「無邪気な自分」が居ないのでは無く、人前でそれができない。
この問題の解決法は、やはり「共同体感覚」です。具体的には、「自己への執着」を「他者への関心」に切り替え、「共同体感覚」を持てるようになることです。
そこで必要になるのが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つのキーワードです
「自己受容」
アドラーは「大切なのは何かが与えらているかではなく、与えられてものをどう使うかである」と言いました。
「わたし」という容れ物は捨ても・交換もできません。大切なことは、「与えられたものをどう使うか?」です。 それは「わたし」に対する見方を変え、使い方を変えていくことです。それは「自己肯定」を強く持てということではなく、「自己受容」です。
この両者には明確な違いがあります。
「自己肯定」とは、出来もしないのに「私は出来る」「私は強い」と、自らに暗示をかける行為です。これは優劣コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘を付く生き方です。
「自己受容」とは、出来ない自分をありのままに受け容れ、できるようになるべく、前に進むことです。
人は誰しも「向上したいと思う状況」が続きます。それは100点満点の人間は存在しないということです。そこで「肯定的なあきらめ」が必要になります。
「変えられるモノ」と「変えられないモノ」を見極めるのです。
「何が与えられているか?」については、自分の力で「変えれない」
「与えられたものをどう使うか?」については、自分の力で「変えられる」
交換不能なものは受け容れる。ありのままの「わたし」を受け容れる。
そして、変えられるものについては、変えていく。
その「勇気」を持つ。これが「自己受容」なのです。
「他者信頼」
「自己執着→他者関心」の切り替えを行う際に、欠かすことの出来ない第2のキーワードがこの「他者信頼」です。
先ずは、「信じる」という言葉を、「信用」と「信頼」にと区別しましょう。
「信用」とは条件付きの信じるです。
「信頼」とは一切の条件をつけない信じるです。
対人関係の基礎は「信用」ではなく、「信頼」によって成立するのです。
他者信頼とは無条件に信じるということです。損害を被っても、裏切られてもなお、無条件に信じる。どんな仕打ちを受けても信頼し続ける。こんな人間に何度も背徳行為がおこなえるでしょうか?
さて、「信頼」の対義語は「懐疑」です。
対人関係の基礎に「懐疑」を置いたとしましょう。
全ての他者を疑いながら生きる。疑いの眼を向けられることは、相手も察知します。ここから、前向きな人間関係は成立するでしょうか?
無条件の信頼をおくからこそ、深い関係が築けるのです。
裏切るか裏切らないかは他者の課題なのです。「わたしはどうするか?」だけを考えれば良いのです。「相手が裏切らないのなら。わたしも与えましょう」は条件付きの信用関係でしかありません。
勘違いしてはならないのは、アドラー心理学は道徳教義を説いているのではありません。他者信頼とは、対人関係における「横の関係」を築くための「手段」なのです。
仮にその相手と関係を良くする必要がないなら、ハサミで断ち切れば良いのです。断ち切ることについては、「わたし」の課題だからです。
繰り返しますが、裏切りは他者の課題です。その際の痛みに着目していては、誰とも深い関係を築くことは出来ません。自己受容で「出来ること」「出来ないこと」を見極めるのです。裏切りは他者の課題であり、自分ではどうにも出来ないことです。
われわれは、信じることも疑うことも出来ます。他者を仲間と見なすことを目指すのであれば、どちらを選択する必要があるかは、明らかでしょう。
「他者貢献」
交換不能な「わたし」をありのままに受け容れ、他者を無条件に信頼をする。
すると「わたし」にとって他者はどんな存在になるでしょう?
「仲間」です。
ここで漸く「仲間」を定義できるのです。
他者が「仲間」であれば、自分に属する共同体に居場所を見出すことにつながります。「ここにいてもいいんだ」という所属感に繋がるわけです。
他者を敵だと思っている人は、自己受容もできていないし、他者信頼も不十分だということです。
さて、共同体感覚をものにするためには、自己許容と他者信頼と、更に第3のキーワード「他者貢献」が必要になってきます。
仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。それが「他者貢献」です。
自己犠牲ではありません。
寧ろ自己犠牲は「社会に過度に適応した人」として、アドラーは警鐘を鳴らします。
われわれは自分の存在や行動が共同体にとって有益に思えた時にだ
け「わたしは誰かの役になっている」と思えた時だけ、価値を感じることが出来ます。
つまり、「他者貢献」とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、寧ろ「わたし」の価値を実感するためににこそ、なされるものなのです。
もっともわかりやすい他者貢献は、仕事です。労働とは金銭を稼ぐ手段ではありません。労働によって他者貢献をなし、共同体にコミットし、「わたしは誰かの役にたっている」と実感し、自らの価値存在を受け容れているのです。
勿論、お金を稼ぐことも大きな要素です。しかし、資産は何処まで増えても人は働き続けます。それは他者貢献のためであり、「ここにいてもいいんだ」という所属感を確認するためです。慈善活動に尽力する富豪達も同様に、自らの価値を実感し、「ここにいてもいいんだ」と確認するために、様々な活動をするのです。
人生の目標
さて、今一度、アドラー心理学の「人生の目標」を再確認しましょう
行動の目標
① 自立すること
② 社会との調和して暮らせること
心理面の目標
① 私には能力がある、と言う意識
② 人々は私の仲間である、と言う意識
両目標の①、「自立する」「能力がある」は、自己受容に関する話です
両目標の②、「社会との調和」「人々は仲間」は、他者信頼からの他者貢献です。
「人生の目標」とは共同体感覚だということになります。
しかし、これを整理し受け容れるのは容易なことではありません。
アドラー自身も「人間を理解するのは容易ではない。個人心理学は、おそらく全ての心理学のなかで、学び実践することが、もっとも困難である」と述べています。
アドラー心理学を本当に理解し、生き方まで変えるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。
私は今年で45歳になります。だとすると、アドラー心理学で生き方を変えるには、22.5年が必要で、67.5歳になりますね。ちょっと途方もない気分になりますが、これからの寿命は120歳まで延びるといわれますから、人生半分過ぎたところで、この考えに迷いのない選択のできる生き方になれるのであれば、なんと素晴らしいことでしょう。
」
さて、人生の目標を細分化し理解したところで、第5夜はここから佳境にはいり、山場を迎え、人生の意味といった大きな課題に到達します。
私も熱量を込めてまとめさせて頂きたいと存じますので、今夜は一旦ここまでとし、インターバルとらせて頂きます。
次回は第5夜後半をまとめさせて頂き、このシリーズの最終回としたいと思います。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。